みなさんの「座右の銘」はなんですか?
私は、ある時から、この言葉を座右の銘にしています。
–– この世の不利益はすべて当人の能力不足で説明がつく ––
週刊ヤングジャンプにて連載されていた人気漫画、「東京喰種(トウキョウグール)」に出てくる一節です。
この言葉を目にした時、衝撃を受けたのを覚えています。
不運が続くのは、本当に運のせいか…?
当時はまだ、大学生だったでしょうか。人生の中でかなり不運なことが続いていた時期でした。
不運というものは連続して起こるものなんだなぁ
ということをひしひしと痛感しており、「なぜこんな理不尽なことが、自分にばかり…」なんてことを考え、やり場のない怒りや悲しみに囚われていたことがあります。
しかし、「この世の不利益はすべて当人の能力不足で説明がつく」という一節を見た時にハッとしたのです。
冷静に考えてみれば、連続で起こっていた不運は、本当にただの運なのか?
ただの偶然が本当に続いているのか?
そう冷静に考え直してみると、自業自得なんじゃないかということが実は多かったのです。
自分がもっとしっかりしていれば、自分の能力がもっと高ければ、どれも起こることのなかった出来事なんじゃないか?
嫌なこと、不幸なこと、不利益なこと。
それらが自分の身に降りかかった時、それはどうしようもなく避けることのできない不運なことだったと、人は誰しもそう思いたい。
でも、それを『不運なこと』に仕上げてしまったのは、実は『自分のせい』なんじゃないのか?
そう思い始めるようになりました。
その不幸を運んできたのは、過去の自分だ
「この世の不利益はすべて当人の能力不足で説明がつく」という言葉はつまり、「不幸なことが起こるのは全部てめえのせいだ」ということ。
でもこれは、多くの人にとって受け入れ難いことでしょう。
「そんなわけあるかよ。」と。
たしかに、不利益を被った時にはすでに、自分ではどうしようもできないことになっていることがあります。
その時点ではそれは「不運」と呼べるかもしれません。
しかし、「不運」を「不運」足らしめたのは、過去の自分なんじゃないでしょうか?
過去の自分がもっとしっかりしていれば、能力があれば、行動していれば、その「不運」に繋がることはなかったんじゃないでしょうか。
例えば、急に勤務先の会社が倒産の危機に追い込まれてリストラにあったとしましょう。
突然に、なんの警告もなく、その通知がやってくるのです。
もっと早く会社の状況を知らせてくれていれば次の働き口を探す時間もあったのに!
いきなり理不尽すぎる!なんて最低な会社なんだ!
普通、そう思いますよね。
でもそれ、本当に会社のせいですか?
- 自分が働いてる会社の状況を何も把握していなかった
- 惰性でなんとなく働いて、会社に必要な人材になれなかった
- どこでも働けるようなスキルを身につける努力をしてこなかった
- 世の中の不況の流れも何も見ていなかった
- 貯金もしていなかった
- ただ周りに合わせて就職して、倒産のリスクを考えもしなかった
- そもそもそんな「最低な会社」を選んだのは自分(そんな会社にしか就職できなかった)
などなど、考えればいくらでも、自分にも落ち度が見えてくるのではないでしょうか。
確かに、その時急にやってくる不幸な出来事は、その時の自分には防ぐことはできないかもしれない。どうしようもないことかもしれない。
でもそれらも全て、過去の自分の能力不足によってもたらされたものだと解釈できるのです。
この考え方のメリット
もちろん、これは極論です。
でも、不運が自分に訪れた時、ただ嘆いていても仕方ないのです。
やり場のない怒りや悲しみに囚われていても、仕方ないのです。
全部自分のせいだ
こう考えることのメリットは、怒りや悲しみを持っていく場所を確保できるということです。
やり場のなかった怒りもすべて、自分に向けることができます。
そうすることで、どうしようもないことに無駄な時間を割かずにすみます。
全部自分のせいなのだから、次にそうならないように自分が対処すればいい、改善していけばいいのです。
未来を見据えることができる
また、この考え持つようになってから、未来のことを少し見据えて行動できるようになりました。
がんばることは面倒くさいです。どうしようもなくサボりたくなってしまいます。
ほんの少しサボったところで、今の自分には大きく影響はしません。
だから、サボってしまう。怠けてしまう。思考を辞めてしまうのです。
そんな時、「今何もしなかったら、未来の自分に不利益を与えてしまう」と思えるようになったのです。
未来に「不運」として成長してしまう種を、今ならまだ潰しておくことができる。
こうした種つぶしをしておかないと、いつの日か、「不幸の連鎖」となって自分に襲いかかってくるかもしれないのです。
不運、不幸なことが続くのはなぜか
また、「不運は続く」とされる原因もちょっと考えてみました。
結論から言うと、これもやはり、不運の種を潰せなかった自分のせいなのです。
ポイントは1つ目の不運が降りかかった時です。
「こんなの理不尽だ、どうしようもないじゃないか」と考えてしまうと、責任を他者に向け始めます。
怒りを周りにぶつけるかもしれないし、ただただ悲しみに暮れるかもしれない。誰かのせいにして酒でも飲んでパーッとしようとするかもしれない。
その時の行為がなんであれ、「なんの解決にもならない行為」に多くの時間を費やしてしまうのです。
その無駄な時間を費やしている間に、次の不運の種は着々と成長していくのです。
そうして、なんの解決にもならない行為を満足するまで行った頃に、また次の不運が成長して襲いかかってくるのです。
「また不幸なことがやってきた!なんで連続してやってくるんだよ!」
…。
こういうことです。
不運を連続して呼び起こしているのもまた、自分のせいなのです。
自分から行動する
1つ目の不運が訪れた時、もしそれが本当に誰かのせいだったり、ただ運が悪かったりしたとしても、
「全て自分のせいだ」と思うことで、自分で改善できる点を見つけ出し、行動することができます。
「誰のせいか?運が悪かっただけなのか?」なんてことは関係ないのです。
- 自分に悪いところがあれば、自分で改善する。
- 他者に悪いところがあったのであれば、それを気づけなかった・放置していた自分が悪いのだから、一緒に改善する手伝いをしてあげる。
そうやって、改善すべき点が自分であろうと他者であろうと、自分から動き出せばいいのです。
ただ待っているだけで周りが良くなっていくことなんて滅多にありません。
もちろん、自分で自分を高めていける人はたくさんいますし、そういう人はあなたが放っておいてもどんどん成長していくでしょう。
ただし、そういう人は、自分で何もしないような人からは離れていきます。
自分で行動を起こすことでしか、自分も、自分の周りも、何も良くならないのです。
この考えを持つようになってからは、不運だと思うことが起きても、気持ちの切り替えが素早くできるようになりました。
何が起こっても「あぁ!全部自分が悪いんだろう、じゃぁ自分自身でなんとかしてやるよ!くそったれ!」と。
それは、単なる開き直りかもしれません。
自分の足で歩むことを覚悟する
–– この世の不利益はすべて当人の能力不足で説明がつく ––
この考え方を受け入れるには 覚悟が必要かもしれません。
何が起きても、他人のせいにできない。 全て自分で受け入れなければならない。
自分の人生は、自分の足で歩くのです。
折れても、へし曲がっても、誰もあなたを担いでは運んではくれません。
ただし、助けを求めることは大事です。
助けを求めるというのも、自分から起こす行動の一つです。
あなたが自分の足で歩くというのなら、肩くらいなら貸してくれるかもしれません。
あなたもまた、助けを求められたら応じてあげましょう。